私の名前は、安斎 響市。
初めての転職で、このポパイ電工株式会社にやってきた。
「ポパイ」と言えば、世界中で知らない人はいない、超有名ブランド。日本を代表する企業の一つと言っても過言ではない。
そう・・・
それは、まだ安斎が「ジョブホッパー」と呼ばれていない頃のお話。
2日目
さあ・・どこから話せばいいのか・・・
実は私は、数か月前まで、別の日系大手メーカーで、海外駐在員として上海で働いていた。
20代で海外駐在の切符を手に入れて、たった1年で駐在先で退職届を出すなんて、
「前代未聞だ」
と、言われた。
同期入社の社員たちは、突然の海外からの便りに驚く人が多い一方で、「安斎君らしいな・・」と言ってくれた人もいた。
・・・。
いま「言ってくれた」と書いたが、決して「誉め言葉」ではないと思う。
なんと、私の人生初めての転職活動は、「上海に住んでいながら、日本国内の転職先を探す」というトリッキーなものだった。
そして、オンラインで面接を受けたり、最終面接では飛行機で東京に飛んだりしながら、3-4カ月の転職活動期間を終えて、
私は、ポパイ電工株式会社の内定を、手にしたのだった。
3日目
まさか・・・
この私が「ポパイ」の社員になるとは。
前職の、株式会社L&Ps(ラブアンドパンティーズ)も大手有名企業ではあったが、巨大企業「ポパイ」と比べると、その威厳も薄れてくる。
L&Psに新卒で入った私は、地方営業所勤務、本社海外営業部を経て、26歳、入社4年目で「海外駐在員」に抜擢されたが、その、上海の地で退職を決意し、転職活動を始めたのだった。
L&Psとポパイは、業界も違うし、規模も全然違うが、社風はどこか似ていて、「穏やかな人が多い」というか、「自由で伸び伸び」というか、何だか、そんなイメージで、
「この会社なら、転職しても上手くやっていけるんじゃないか」と、その時は、思ったんだ。
その時は、
本当に、そう、思ったんだ。
4日目
日本を代表する巨大企業「ポパイ」に中途入社した初日、安斎が向かったのは、
東京・品川区の某駅から徒歩3分の場所に悠々とそびえ立つ、
ポパイ電工グループ
「グローバル本社」ビル
ではなく・・・
宮城県仙台市、仙台駅から車で1時間ほどの場所にある、
ポパイ電工・TKG事業部
「仙台第2工場」であった。
なぜ初日からこんなところにいるのか、というと・・・
日系老舗大手メーカーであるポパイは、「現場主義」を大事にしており、何事もまずは製造の現場を知ることから、という意味で、新卒でも、中途でも、新入社員はまず、工場研修を全員必須で受けさせるのである。
中途の社員に課せられた研修期間は、
1カ月。
実は、昨日から、新幹線で仙台に前入りして、マンスリーアパートの一室に引っ越してきている。古くて汚い、カビ臭い部屋だった。
妻は東京のマンションに残してきた。1カ月は離れて暮らすことになる。
まさか・・・中途入社で、本社の「海外営業部」配属なのに、わざわざ東北まで来て、丸1カ月も工場で働くことになるとは・・・
初めての転職で入った2社目の会社は、最初からいきなり、「想定外」の幕開けだった。
5日目
こうして、私は、1カ月の工場実習に従事することとなったわけだが、
ここで「工場」にいた30日間の話を語り始めてしまうと、
ポパイ本社ビルに辿り着く前に、本作「100日後に転職するジョブホッパー」の3分の1が工場勤務の話になってしまう。
そこで、大人の事情で、少し時を飛ばそうと思う。
時をかける少女、というわけだ。
ごめんなさい。嘘です。
失礼しました。少女ではありません。
美少女です。
・・・。
さて、
盛大にスベッたところで、
話を続けようか・・・
本当に本当に「1カ月」の工場実習は、
濃厚な体験であった・・・
現場の作業員のほとんどは「期間工」と呼ばれる、3カ月限りの契約社員。生産台数の増減に応じて、クビを切られたり、切られなかったり。
その人たちは、高校を卒業してすぐの19歳だったり、他の企業に長く勤めた後、リストラされて仕方なくこの仕事をしている53歳だったり・・・
そして・・・
工場のラインはほとんどが自動化され、機械によって生産が行われており、「人間」が担当するのは、機械に部品をセットして「ボタンを押す」という作業だけ。
近い将来、この仕事がAIによって奪われ、消えてなくなるであろうことは、ここで日々働いている人たちでさえ、気づいているに違いない。
ただ、今月の給料のために、働く。
そして、私は、同じラインの現場の仲間たちに、なぜか質問攻めに遭った。
「安斎さん、教えてください!この会社で正社員になるためには、どうしたらいいんですか?
私、この工場でもう2年働いているのですが、正社員になれなくて・・・
もう来年は30歳で、彼女と結婚したいのですが、彼女が『正社員になったらね』って言うんです・・・」
「安斎さん、大卒なんですよね!スゴイ!大卒の人なんて、この職場にはいませんよ!
『大卒』ってやっぱりエリートだから、給料良いんですよね?」
なんだか、
本当に、【衝撃】だった。
前職では、こんな経験は、無かった。
「正社員になるためにはどうしたらいいのか」
「大卒はエリート」
そんなこと・・・
考えたことも無かった。
今までは、私に見えていた世界では、
「正社員がデフォルト」だったし、「全員が大卒」が当たり前だった。
そして、オフィスでPCを使って働くのではなく、巨大な工場で、ひたすら体力と忍耐力が必要とされる「工場勤務」で、田舎の金髪ヤンキーみたいな人たちに囲まれ・・・夜中の4時まで工場のラインを回す「深夜シフト」まで日々こなしながら、
製造業の「現場」で働く30日間は、確かに、新鮮で、貴重な経験ではあった。
ただ・・・
これから、ポパイ電工の東京グローバル本社ビルで、海外営業部・アジア&パシフィック営業課で働く私に、
本当にこの「工場勤務」の経験が、
1カ月も必要なのか・・・?
というのは、
正直言って、よく分からなかった。
ポパイに転職して最初の1カ月は、
こうして、
モヤモヤとしたまま、過ぎていくのであった。
6日目
そして、安斎は東京に戻った。
まるで、あの宮城の工場で「ライン作業員」として過ごした1カ月が「嘘」だったかのように、私は東京都品川区の、巨大な「グローバル本社ビル」の前に立っていた。
何度かTVで見たことがある、有名な自社ビルだ。
昨日まで工場で着ていた、「ポパイ」ロゴ入りの作業服と軍手とヘルメットではなく、今日からはスーツに身を包んで、「ポパイ電工株式会社」の社員証を首からぶら下げている。
ここから、ついに始まるんだ。
私の「ポパイ」での仕事が。第二のキャリアが。
ビル1Fのお客様向けショールームを抜け、2Fのロビーで、セキュリティ管理室で「入館手続き」を済ませた後は、私と同じように中途入社で今月入った「同期社員」たちが、大きな会議室に集められ、まずは、人事部から、中途入社社員向け研修などの説明を受けた。
さすがはポパイ、
大企業だ。
中途入社でも、これだけ手厚い新人研修が用意されているのか。
人事研修担当「えー、それでは、次に・・・皆さんには、これから2時間ほど、創業者である法蓮草珍助が遺した社是と社訓に関する教育ビデオ①~⑤を見ていただきます。見終わったら、感想レポートを書く時間を30分設けます」
・・・。
さすがはポパイ、
大企業だ。
7日目
初日の午前中から、これは参った・・・
「創業者の教え」をまとめたビデオを見ること、2時間。
前職のL&Psでもこういうのは多少はあったが、さすが巨大企業・ポパイ電工。
ちょっと宗教じみている・・・
まあ、でも・・・
まあまあ、確かに、
自動車メーカー「ポンタ技研工業」の創業者・本田ポン太郎や、
総合電機メーカー「パンティストッキング」の創業者・松下バビ之介などと並ぶ、
「日本を代表する経営者」
法蓮草珍助(ほうれんそう・ちんすけ)
の教えには含蓄が深く、
①「現場」を大事にする
② 人のため世のために努力する
③ 常に挑戦する心を忘れない
④ ほうれん草を食べると強くなる
などなど、その内容は非常に優れたもので、
有名企業「ポパイ」が、いかに、何兆円もの売上を毎年挙げる為に、日々、努力を重ねてきたのかが、染み染みと伝わってきたのだった。
その後、中途の新入社員の私たちは、社員食堂で昼食を取り、午後からは、「上司との入社時面談」の後、各自の職場に向かう、という流れになっていた。
私の上司である高橋課長は、中途採用の一次面接のときにお会いしたきりだが、ハゲた小太りの、臭そうな中年のオッサン 光り輝く頭脳とカリスマ性、経験に裏打ちされた重厚感ある佇まいを醸し出す、「ポパイ」の名に相応しい、とても優秀そうな方であった。
「やあ、久しぶり。安斎さん。入社、おめでとう。
とりあえず・・・12階のカフェで少し、話そうか」
「ありがとうございます!高橋課長、ご無沙汰しております。
本日より、お世話になります。よろしくお願いいたします!」
ブレンドコーヒーを2つ頼んで、私たちは、窓際の席についた。
8日目
私の上司・高橋課長は、ブレンドコーヒーを飲みながら、静かに話し始めた。これから担当する仕事のこと、所属するチームのこと、私に期待する役割、などなど・・・業務の概要の話である。
私は、植野係長という方の下で、オーストラリア・ニュージーランドの担当になるらしい。
「植野さんはね、厳しい人ではあるけれど、すごく優秀だし、きちんと教育もしてくれると思うよ。女性であんなに仕事が出来る人は、社内には、なかなかいないよ。」
なるほど・・・この会社「ポパイ」は、創業50年以上の伝統を持つ日系老舗企業で、「技術」に強い会社だ。社員の平均年齢は47.5歳。そのうち、8割は男性である。
前職も日系大手メーカーだったので、なんとなく分かる。
きっと、この会社も男性中心の文化で、女性の昇進はなかなか難しい中、私と同じチームになる植野さんという方は、仕事で実績を挙げて、課長からも評価される、バリバリのキャリアウーマンらしい。
よし、優秀な人の下で働けるのは素晴らしい。私も、早く「戦力」になれるように頑張ろう・・!!!
高橋課長からの仕事の説明は、非常に明確で分かりやすいもので、特に疑問も無かったが・・・私には、ひとつだけ、どうしても、どうしても、気になることがあった。
高橋課長の、右手が、包帯でぐるぐる巻きなのである。
9日目
そう・・・
高橋課長の、私の入社関連書類をめくる右手が、包帯でぐるぐる巻きなのである。どう見ても、尋常ではない大怪我だ。
骨折?なんだろう? 右手だけ、ミイラみたいに包帯だらけになっている。左手でペンを持って書類を記入しているが、どうやら左利きではないらしい。
苦い顔をして、非常に字を書きにくそうにしているし、その文字を見ても、恐ろしくバランスが取れていない。無理して利き手と逆の手でペンを持っている様子だ。
そりゃそうだ。明らかに右手は使い物にならない。あれだけ包帯だらけで分厚くなっていては、ペンを持つことすらできないだろう。
・・・・・気になる!!!!
高橋課長は何事も無いように話を続けているが、包帯が気になって集中できない。
話が一区切りして、雑談に変わったところで、
安斎は、勇気を出して聞いてみた。
明らかに大怪我をしているのに、一切触れないのもおかしいような気がした。
「そういえば・・・、右手は、お怪我をされているのですか?」
私は、バイクで怪我をしたとか、そんなところだろうかと思っていたが、高橋課長は、びっくりするくらい気まずそうに、苦笑いをしながら答えた。
「ああ。。。これはね、うん・・・・。
いや・・なんでも無いよ。いや、、、うん。」
なんだ・・・?
この重い空気は。
10日目
高橋課長の、この反応・・・一体なぜ、こんなに気まずそうに言うんだ・・???
ますます気になってきた・・・!!
例えば、スポーツで怪我をしたとか、事故にあったとかだったら、こんなに気まずそうにするだろうか・・・。一体なんだと言うんだ。
高橋課長との話が終わった後、私は、22階にある自分の部署「海外営業部 アジア&パシフィック営業課」に向かうため、課長と共にエレベーターに乗った。
エレベーターの中で会った先輩社員が、課長に話しかけた。
「あ、高橋さん、まだ包帯してるんですね。左手で箸持つのとか、慣れました?」
課長は、また気まずそうに答えた。
「いや。。。。うん、ぼちぼちね」
先輩社員がまた聞いた。
「それ、労災認定されるんですか?」
高橋課長は、今度は怒ったように返事をした。
「いやいやいや、労災なわけないだろ。勘弁してくれよ」
え?労災?
私はドキッとした。
私たちの部署の業務内容は「営業」のはずだけど・・・、怪我をするような業務があるというのだろうか。そして、上司がなぜこんなに気まずそうにしているのか、不思議に思った。
高橋課長の右手は、実は、ただの「怪我」ではなかったのだが、その「衝撃の理由」を、安斎は、この少し後に知ることになるのだった。
11日目
「へー。若いんだね。。。私は植野。オセアニアチームのリーダーだから、よろしくね」
この人が・・・植野係長。30代半ばくらいだろうか。いかにも厳しい雰囲気の女性だ。
「はい、安斎響市と申します。本日より、宜しくお願い致します!」
少し緊張した面持ちで、安斎は「海外営業部 アジア&パシフィック営業課」メンバーへの挨拶を終えた。自分の机に着き、まずは支給されたPCと社用携帯の設定から・・・
「じゃ、安斎くん。さっそくだけど、最初の仕事よ。」
「はい、ありがとうございます!何でもやらせていただきます!」
「ちょっと、ちょっと・・・初日から張り切りすぎなくていいのよ(笑)」
「仕事っていうのはね。。。あなたの、自己紹介のメール。この22階の海外営業部と海外駐在員全員へのね。ドラフト、書けたら見せてくれる?」
なるほど・・・確かに「自己紹介」は大事だ。私は前の会社に5年もいて、基本的なことを忘れていたのかもしれない。
私は、真面目な書き出しに、ちょっとしたユーモアを入れた、自分らしい自己紹介メールの下書きを作り、植野係長のところに持って行った。たかが自己紹介のメールを先輩に見てもらうなんて・・・とは思ったが、初日だし、まあ「念のため」ということだろう。
「・・・。ふー。全然ダメ。
あなた、新人だから仕方ないけど・・・まずはポパイ電工に対する尊敬と、創業者・法蓮草珍助への感謝の言葉でしょ?
あと・・・メールの書き出しは『海外営業部の皆様』でいいわけないでしょ?
明石本部長様
前原部長様
吉村部長様
・・・(以下10名)
は最低限、ちゃんと御名前を入れて送らせていただかないと、失礼よね?」
「あ・・、申し訳ありません。色々と社内ルールがあるんですね」
「・・・は?
社内ルールじゃないのよ、『常識』よ!!
もう・・・さっさとやってくれる? もう15時よ?
私のチームリーダー承認の後は、
高橋課長のレビューと、前原部長の事前ご承認をいただいてから、
やっと皆様に、あなたの自己紹介をお送りできるんだから」
「・・・・・え??」
私には、ちょっと何を言っているのか分からなかった。
12日目
「うん・・・そうだなあ・・
もっとこう・・オーストラリア担当になれたことの喜びというか・・・オーストラリアには元々興味があったとか、そういう内容を書いてみたら、どうかな?」
配属初日、社内へ配信する私の「自己紹介メール」の、マネジメントレビューが続いていた。修正して課長に見せること、これで4回。既に、私が最初に書いた「原文」は、ほぼ残っていない。
ちなみに、私は、オーストラリアには一度も行ったことが無いのだが、「元々興味があった」と書かなければならないらしい。
「あと・・・やっぱり、ポパイ電工に対する『想い』をもっと膨らませて書かないと、たぶん、この後の部長承認が通らないと思うんだよな・・・」
既にメールの半分を占めている「愛社精神」の記載を、更に増やすよう、高橋課長は求めた。
「そうですよね、私もそう思います、課長」
植野係長も大きく頷いた。
一体こんなことを・・・何時間やっているのだろう。
初日から、このせいで、私は残業をしている。
こんなに何度も何度も修正するくらいなら、最初からテンプレでも用意しておいてくれればいいのに・・・
「よし、じゃあ、この ver.7 で 前原部長の承認取ってくるから」
「あ、はい・・・」
「ちょっと、安斎君、あなたは行かなくていいのよ」
「え、あ、ですが・・私の自己紹介メールでは・・・」
「あなたさぁ・・・新人が初日から、部長と直接口聞けると思ってるの? 生意気なこと言わないでよ・・・」
もしかして・・・私は、とんでもない会社に、入ってしまったのかもしれない・・・
ポパイ電工・グローバル本社、出社初日のストーリーは、これで終わりではなかった。
13日目
結局、マネジメントレビューを一通り終えて、「最初の仕事」を完了させたのは、夜の7時半。
まさか、本社配属初日から、「自己紹介メール」の為に残業することになるなんて・・・というか、今日はこれしかやっていない。なんだか給料泥棒になった気分だ。
捨てる神あれば、拾う神あり。
その日は水曜日だったが、私の「プチ歓迎会」ということで、何人かの年の近い先輩たちが、会社の近くの居酒屋に飲みに連れて行ってくれた。
なんて、優しい先輩たちだろう。
私は、少し安堵した。
そして・・・先輩たちが上司の高橋課長の話をし始めたところで、安斎は、不意に、課長の右手の包帯のことを思い出した。
きっと大怪我ではあるが、別に後遺症が一生残るような大きな障害には見えなかったし、さすがに1〜2ヶ月もすれば完治するだろう。あまりにも気の毒で理由を聞くのが憚られる、というほどの怪我ではない。
なぜ、高橋課長は話をはぐらかし、あんなに気まずそうにしていたのだろうか。
先輩たちの中で、会話の中心にいる近藤さんと言う人がいた。今日、初日で緊張している私に声をかけて、飲みに誘ってくれたのも近藤さんだ。
とても良い人そうだし、この人になら聞いてもよさそうだ、と思った。
「そういえば、、、高橋課長、右手、怪我をされてますよね? どうされたんですか?」
14日目
「高橋課長、右手怪我をされてますよね?どうされたんですか?」
その一言で、なぜか居酒屋のテーブルが、一瞬にして爆笑に包まれた。
「ハッハッハ、あれねーー!! あれはやべえよ! やっぱり気になるよな!でも課長は理由言わなかったでしょ!」
他の先輩たちも、みんな笑っている。そんなに珍エピソードなのだろうか。その後、近藤さんが説明してくれた内容は、私の想像を超えていた。
「あれね、この前さ、APACの代理店ミーティングやったわけ、11月の終わりかな。海外からも代理店の人たちが日本に集まって、みんなでワイワイ酒飲んで、確か3次会がカラオケだったんだよね〜。
そんでさ、明石本部長がさ、『オイ、高橋と近藤、お前ら2人、全裸になれ』って言うの。
あの人、酔っ払うと無茶振りするからさー。そんで、俺と高橋課長が全裸になったのよ」
当然のように、「全裸になった」と言う近藤さんの話に、私は最初なかなか、頭がついていかなかった。
カラオケボックスで全裸?女性社員もいる前で?
え?なに言ってんの、この人?
近藤さんは話を続けた。
「そんでさ、2人で全裸になった後、明石本部長が、相撲とれって言うんだよ。真剣勝負でやらないと、お前ら評価下げるからな!!って。
仕方ないからさ。高橋さんと真剣勝負で相撲取ったの。あの人太ってるからさ〜、バランス崩して転んで、そんで右手の指2本、複雑骨折したんだよね!
全治1ヶ月だってさ!笑えるだろー!!!労災だよ、労災!ハハハハハ!」
私は、全く笑えなかった。
明石本部長というのはどうやら執行役員の名前だ。偉い人だ。
その人が、カラオケで酔っ払って無茶振りをした結果、海外の取引先も、女性社員も大勢いる前で、35歳中堅社員と、48歳営業課長の2人が全裸になって相撲をとって骨折した、と、そういう話だった。
それを近藤さんは嬉しそうに武勇伝のように語り、周りの先輩たちも、「これ鉄板ネタだよな〜」とゲラゲラ笑っている。
近藤さんはさらに話を続けた。
「あ、明石本部長はうちの営業組織で一番偉い人だからね。
あの人がやれって言ったことは絶対だから。覚悟したほうがいいよ。」
この会社は、ヤバイ。
まだ本社出社初日だが、直感的に思った。
私の嫌な予感は、この後、
最悪の形で当たることになる。
その日は、水曜日だった。
15日目
その日は、水曜日だった。
27歳の冬。
初めての転職で入社した大手企業での、配属初日。私にはもったいないと思うくらいの、日本を代表する超有名企業。
小さな居酒屋で、部署の先輩数人で開いてくれた、私のプチ歓迎会。先輩たちはみんな良い人で、楽しい夜は徐々に更けていった。
そう・・・
その日は・・・
水曜日だったんだよ。
「あの」水曜日だ。
何の話かって?
この話さ。
その日、安斎は、思い出した。
「社畜」に心を支配されていた恐怖を・・・
「鳥籠」の中に囚われていた屈辱を‥‥‥
16日目
あの忘れもしない「魔の水曜日」と、翌日の「絶望と共に眠る木曜日」が過ぎ・・・
安斎は、少し冷静に考えていた。
高橋課長の昨日の言葉を思い出す。
「この会社はね、というか、この部署はね、仕事のほとんどがルーティンワークなんだよ。いわゆる単純作業。業務量が多いから時間はかかるけれど、一度仕事を覚えてしまえば、誰でもある程度はできる仕事なんだよね。
じゃあ、どうやって差をつけて、社内の出世競争を勝ち抜くと思う?
・・・・・飲み会だ!!
・・飲み会しかないんだよ。
先輩達や偉い人に朝までついて行って、どこにでも飲みに行って必死でアピールしないと、この会社じゃ出世はできないよ。」
極めつけが、あのセリフだ。
「君が入ったのは、そういう会社なんだよ。もう入っちゃったんだからさ。だから、分かるよな。次回は頼むぞ。 ほんとに。
オッパブは・・・
コミュニケーションだからな!!」
何ということだ・・・前職の株式会社L&Psでも、社内接待や、飲み会でのアピールはあった。多少はどこの会社にもあるだろう。
だが・・・この会社、ポパイ電工は・・・
「オッパブはコミュニケーションだ」と上司に個室でガチ説教されるなんて、そんな馬鹿な事があるか・・・
というか、あの「ポパイ」のテレビCMで作られる「先進的で超カッコいいイメージ」や、よくメディアで取り上げられている「自由で風通しが良い社風」は、一体何だったんだ・・・?
私は・・・
この会社で、
やっていけるのか・・・???
「やっていけるはずがない」ことは、安斎には頭では分かっていたが、初めての転職で入った、憧れの超有名企業に、まだ、どこかで「期待」をしていた。
目の前に突き付けられた「現実」を、
認めたくはなかった。
17日目
そもそもの話・・・私が前職の日系大手企業、株式会社L&Ps(ラブアンドパンティーズ)を辞めたのは、こういう「社内接待」や「ハラスメント」みたいなものに嫌気が差したからだ。
新卒入社から5年、26歳で社内最年少の海外駐在員として、上海支社に駐在となり、中国人の部下を持ち、若くして管理職のポジションに就いていた。
東京本社時代から4年近く携わったオパンティー事業部の仕事自体は、そんなに嫌いではなかったし、中国・蘇州に新たに建設された、最新鋭のオパンティー工場で生み出される新製品には、本当に期待していた。
出来ることなら、L&Psを辞めたくなんかなかった。
それでも、辞めた。
新卒で入った1社目の会社しか知らない自分の狭い世界を、もっと広げたかったから。
ビジネスの本質に関係のない「社内政治」や、お客様と何の関係もない「社内接待」が、自分の仕事のすべてだったことが、どうしても、納得いかなかったから。
安斎は、L&Psの先輩、沼田さんの言葉を思い出していた。
「とにかくさ.. この会社じゃ、20代で海外駐在員ってのは並大抵のことじゃない。 そして、この待遇。 みんなこの待遇に溺れて、色んなものを見失うんだ。
でもさ.. 安斎、お前は、 自分の好きなことをやりなよ」
自分の好きなことをしたくて、会社を辞めたはずだった。
安斎は、早くも、また「道」を見失っていた。
18日目
「ポパイ」と言えば、TKG業界では国内最大手。世界シェアでもトップ5に入る、世界的有名ブランドである。その「ポパイ」が・・・"あの"「ポパイ」の実態が・・・これ?
水曜日の「オッパブ事件」以来、近藤先輩の態度は、ずっと冷たいままだ。他の先輩たちも、どこか、よそよそしい。「深夜2時のオッパブの誘い」を断ったことを、よほど根に持っているらしい。
むしろ私の方が、「アイツはおかしい」と陰で噂されている様子だった。
そうなのか・・・
おかしいのは、私なのか・・?
そうだ、彼がいる。山田さん。
中途の同期入社の1人で、少し年上だけど、とても面白い人で、みんなから「山ちゃん」と呼ばれて慕われている。
彼は確か「ファンキー」のグループ会社出身だ。「ファンキー」は、このTKG業界では「ポパイ」に次ぐ二番手の大手企業で、「業界二強」と、ポパイと並び称される存在だ。つまり、山ちゃんは、最大の競合他社から転職してきている。
前職の「ファンキー」と比べて、「ポパイ」の雰囲気をどう思うか、聞いてみたかった。
「山ちゃん・・・ちょっと聞きたいんだけどさ・・」
「おお、安斎くん、どうしたの?」
私は、この数日で起こったことを、山ちゃんに話した。
「ああ・・・、まあ、よくあるよね。俺も連れていかれたよ、今週。風俗。
歓迎会だっつってさ。『ファンキー』も似たようなもんだったから、俺は別に気にしないけど、こういう文化が初めての人もいるよね。
『ファンキー』では、入社初日に、フンドシ一丁で飲まず食わずの山登り訓練させられたから、行きたくもない飲み会に朝まで付き合わされるくらい、どうってことないよ、ハハハ!」
妙に明るい、山ちゃんの真っすぐな笑顔が、私は、少し怖かった。
19日目
我々の会社「ポパイ」のみならず・・・競合他社の「ファンキー」もそうなのか・・・
一体どうなってるんだ、TKG業界。
日本経済界でも一定の地位を持ち、巨大な産業である「TKG」。近年では、TKG自体が独立してインターネットに繋がり、AIによる自動ソイソース調整機能を持った「スマートTKG」が主流になっている。そんな「TKG」に明るい未来を感じて、前職の狭い業界を辞めて、移ってきたんだ。
競合他社から来た、同期の山ちゃんは、「この業界では、たぶんこれが普通だよ」と言う。
これって・・・私がいた業界との違い・・・?
疑問に思って、他の業界から来た同期にも聞いてみたのだが・・・
「ポパイはすごく良いよね!だって独身社員の家賃補助が月5万円も出るなんて最高だよ!前の会社はこんなに待遇良くはなかった。
確かに、体育会系でパワハラ体質っぽい会社だけど、この待遇なら我慢できるよね」
「私の前の会社は、もう本当に経営がヤバくて、コスト削減で出張も禁止だったし、ボーナスもゼロだったんだよね。
ポパイならボーナスは5カ月は出るし、確かに初日から上司にセクハラ発言されたけど、前の会社も同じようなものだったしね~」
私は、これを聞いて、ハッとした。
そうだ。「会社への評価」は相対的だ。私たちはみんな2社目。前の会社との比較でしか、何も判断できない。
全ての人に、見えている世界は違う。
前の会社が良い環境なら、ポパイが地獄に見えるかもしれないし、
前の会社が酷い環境なら、ポパイが天国に見えるかもしれない。
そして、会社への印象は、社風や社員の雰囲気だけでは決まらない。多少厳しいこと・辛いことがあっても、待遇やオフィスの環境などが良ければ、すごく良い会社に見えてくるのかもしれない。
もしかして・・・この環境においては、おかしいのは、私の方なのかもしれない。
今の安斎には、なんだか、そんな風にも思えてきたのだった。
20日目
その日、安斎は、品川駅近くのスペイン料理の店で、同期入社の「深田」と2人で飲んでいた。
深田は、安斎と同じく今月「ポパイ電工」に中途入社し、同じ22Fの「海外営業部」で働いている同僚だ。安斎はアジア&パシフィック営業課所属だが、深田の所属はヨーロッパ営業課。年齢も同じ27歳で、前職が大手メーカーという点も似ていて、私たちは、すぐに仲良くなった。
「でもさ・・・この会社、色々おかしいよな。ほんと、日本的大企業って感じ」
「深田・・・お前だけだよ。この気持ちを共有できるのは。他の奴らみんな、これが普通だとか、前の会社よりはマシだとか・・・」
「まあまあ、俺とか安斎の前職は、割と幸せな会社だったってことだろ? 田中なんて、あいつの前職、ペンデュラム産業だぜ。そりゃ辞めたくなるだろうし、多少パワハラセクハラされたって、ポパイのほうがマシだろうなあ・・・」
「それは、確かに俺も思うよ。会社が良いか、悪いか、なんてのは、自分の過去の会社と比べてどうかってだけだもんな。
そういう意味では、俺も、前にいたL&Psがいかに素晴らしい会社だったか、今になって見えてくる部分もあるし、これも経験かなって思うよ。
一度も転職をしたことのない人には、自分の会社が良い環境なのかどうかも、
結局のところ、分からないんだからな」
「確かにそうだ。おっしゃる通り!
ポパイは、俺も想像と全然違ったし、正直言って、第一印象はかなり悪いよ。でも、まだ、本社配属されて1週間だからな。俺たちがまだ知らないだけで、意外と良い会社かもしれないよ?」
「さすが、深田。いいこと言うな。そうだよな。
きっと・・・ そうだよな。きっと・・・」
ポパイ電工グローバル本社ビルに来てから、激動の1週間が過ぎた。仙台の工場実習で深夜までラインを回していた日々が、既に懐かしく思えてくる。
安斎は、まだ知らない。
この後、彼が「ジョブホッパー」と呼ばれるようになることを。
/////////////////////////
100日後に転職するジョブホッパー
第一章「オッパブと上司の骨折」
完。
・・・第二章へつづく。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称等は架空であり、
実在のものとは一切関係ありませんが、
安斎響市は、「自称イケメン」の、
無敵のジョブホッパーです。