
こんにちは。安斎響市です。
今日は、心理学、というか哲学のお話。
日本ではベストセラー『嫌われる勇気』で有名になった、アルフレッド・アドラーが創始した「個人心理学」、いわゆる「アドラー心理学」の考え方に基づいて、キャリアと転職について考えてみよう、という記事です。
というのも・・・
日々Twitterで発信をしていると目にする、様々な人の人生の悩みって、ほぼ、この『嫌われる勇気』を読めば解決するんじゃないか?と、私は結構真面目に思うからです。
自分は「何かのせい」「誰かのせい」で不幸な訳ではない
例えばの話、Twitterって匿名の人がほとんどだからか、日々愚痴を垂れ流している方が多く、「上司がクソだから努力しても報われない」「おかしな会社に入ってしまったせいでキャリア壊された」「毒親の元に生まれたのが運の尽き」みたいに、自分の人生が上手くいかないのを「何かのせい」「誰かのせい」にしている話が、非常に多いです。
別に、それが悪いとは言いません。
Twitterの使い方は人それぞれです。誰にも言えない愚痴を吐き出す場として、かつての「2ちゃんねる」みたいな使い方をしたいのであれば、それもその人の自由でしょう。
ただ、アドラー心理学では、こういう「自分の不幸は○○が原因だ」という「原因論」を、完全否定しています。
つまり、自分の不幸が「上司」のせい、「会社」のせい、「毒親」のせい、という考え方は全て間違いだ、ということです。
自分は「公務員だから・・・」「高卒だから・・・」「ADHDだから・・・」みたいな人も同じです。
こういう人たちは、「自分が不幸である理由」を必要としていて、何かその「理由になりそうなもの」を自分に都合よく利用しているんです。
「自分は○○だから仕方がない」と、「不幸な自分」を演出していたい、ということです。
いかなる経験も、それ自体では成功の原因でも失敗の原因でもない。われわれは自分の経験によるショック---いわゆるトラウマ---に苦しむのではなく、経験の中に目的にかなうものを見つけ出す。自分の経験によって決定されるのではなく、経験に与える意味によって自らを決定するのである。
『嫌われる勇気』第一夜より抜粋
これはアドラー心理学の「目的論」と呼ばれる考え方で、
「嫌な上司」や「腐った会社」のせいで自分の仕事が上手くいかないのではなく、自分の仕事が上手くいかないのを全部「上司」や「会社」のせいにして、弱い自分から逃げる口実にしているだけ、という発想です。
言い換えると、まず心理的に「自分の仕事が上手くいかないのは自分のせいではなく、仕方がないことなのだ」というストーリーを作る目的が最初にあり、その目的の為に、自分でも無意識に「上司」や「会社」を利用している、ということです。
「上司さえもっとマシな人だったら、自分は仕事で能力を発揮できたのに」と信じ込んでしまえば、「仮に上司が変わったとしても全然ダメで結果を出せない自分」を認めなくて済みますからね。
同様に、例えば、一見恵まれた人生を手にしているように見える「帰国子女」の人たちでも、「自分は帰国子女だったおかげで難なく英語が話せる。本当に両親に感謝。」と言っている人もいれば、「帰国子女だからって勝手に英語ネイティブレベルだと思われててプレッシャーだし、幼少期もいじめられてトラウマ。」などと言う人も実際にいます。
これが、アドラー心理学の「自分の経験によって決定されるのではなく、経験に与える意味によって自らを決定するのである。」ということです。
「性格の合わない上司」「ブラックな会社」「帰国子女という生い立ち」のどれも、それ自体はポジティブでもネガティブでもなく、それをポジティブにするのもネガティブにするのも自分の考え方次第、という意味です。
「ダメな上司に当たったせいで自分のキャリアはもうダメだ」と言う人もいれば、「ダメな上司に当たってしまったのは事実だが、上司を反面教師にして自分も成長できたので結果的には良い経験だった」と言う人もいます。
「上司」や「会社」や「毒親」や「帰国子女」を、自分の成功・失敗とは無関係と捉えて前向きに生きられる人もいれば、これらを大げさに自分が不幸な理由に仕立て上げて不幸自慢のネタにする人もいます。
そして、「自分は不幸だ」と嘆く人は、実は「不幸な自分」を心の底では気に入っている、というのがアドラー心理学の考え方です。
「自分には何の才能もなく環境にも恵まれず、ずっと不幸な人生なんだ。仕方がないんだ」と決めつけて思い込んでしまえば、「幸せになる為の努力」を必死でしなくてもいいから、言ってしまえば「楽」ですからね。
「幸せになる勇気」
これをアドラー心理学では、「幸せになる勇気」が足りない状態、と表現しています。
現状維持は、「楽」です。
どんなに現状に不満があったとしても、新たな道に挑戦する方が、現状維持よりも精神的にキツイのは当然です。
例えば、仮に、今勤めている会社に不満があって、「こんな仕事やってらんねえよ!」と思ったとしても、思い切って転職活動を始めるより、居酒屋で同期と飲みながらひたすら会社の愚痴を言っているだけの方が、遥かに楽です。
現状を変えようとする努力には痛みが付き物なので、「現状の仕事の不満に耐えるストレス」よりも「転職活動をすることの面倒臭さとリスク」の方が実はよっぽど嫌で、「給料安いしパワハラ体質の会社は嫌だけど、転職する勇気は無い」という人が実際には多いと思います。
私は、彼がいる会社がどれほどブラックで理不尽な環境なのか知っているので、転職するかどうかはともかく、「転職という選択肢を一切考えない」のはメチャクチャもったいないなあ~と思うのですが、
これがアドラーの言う「幸せになる勇気」が足りない状態なのだと思います。
つまり、能力とかスキルの問題ではなく、「勇気」の問題ということです。
彼自身も「うちの会社はこれだから全く・・・」と会うたびに会社の愚痴を言っていますが、それでも、会社を辞めようとは思わない。
その「勇気」が、無いから。
別の例を挙げると、「社畜」って実は楽チンな生き方なんですよね。
「社畜」って、辛いもの、嫌なものというイメージはありますが、家畜のように会社に人生を委ねて依存しているのって、実は楽チンなんですよね。
仮に、今の自分に納得がいっていないとしても、今の仕事が本心から好きになれないとしても、だからと言って、「自分を変える」にはものすごく勇気が要る。
その勇気を振り絞ることなく、「ダメな自分」を何かのせい・誰かのせいにして「仕方がない」とあきらめてしまったほうが、頑張らなくていいから「楽」なんです。
「今はそのタイミングじゃないから」
「家族がいるから、なかなか・・・」
「年齢的にもう無理だから・・・」
と、言い訳を探そうとすれば簡単に見つけることができます。
ただ、これらは「言い訳」でしかなく、家族や年齢を「転職できない理由」として利用しているだけです。
もちろん、転職することが全てではありません。
しかし、もし自分が自分の人生とキャリアに100%納得しているのであれば、会社や仕事に対して明らかな不満があるのに、それを変えられないのを家族や年齢のせいにする必要はないと思います。
「自分にとって今の会社がベストで、自分はこの仕事が本当に好きだ」と言い切ってしまえばいいだけです。
そう言い切れないのを、「若い頃だったらできたけど」「もし独身だったら転職してたけど」と言い訳したくなってしまうのは、本心では、不満はあるけれど、わざわざ自分の趣味の時間などを削ってまで、転職活動というストレスのかかる挑戦をしたくない、ということに他なりません。
もしくは、恐らく転職活動をしたとしても年収が下がってしまう「実力不足の自分」を認めたくないだけです。
アドラーの言葉を借りれば、これは、自分が決して成功できない不可抗力の状況にあるのではなく、本人がそもそも成功することを求めていない、つまり、幸せになる勇気が無いという状態です。
「人生の嘘」
アドラーは、人生のすべての悩みは「人間関係の悩み」だと述べています。
例えば、年収が低くて満足のいく暮らしができないのも「あの人は20代で年収1,000万円超えているのに・・・」と他者と比べることによって生じる悩みですし、仕事が上手くいかなくて悩むのも、「来月までには結果を出さないと、上司に怒られるし、周りから白い目で見られる・・・」という他者との人間関係が基準になっています。
ただ、本来、「このままではいけない」という、自分の人生を変えたいという強い想いがあるのなら、それは他者と比べること、他者から評価されることを基準にする話ではなく、自分自身が今後どう生きたいかという「自分がやるべきこと」の問題のはずです。
また、アドラーは、様々な口実をつけて、本来自分がやるべきことを回避しようとすることを、「人生の嘘」と表現しています。
自分のキャリアが上手くいかないのは「無能な上司のせいだ」、「ブラックな会社のせいだ」、「自分の担当業務が自分に合っていないせいだ」、と理由をつけたがる人は多いです。
確かにそれは事実なのかもしれません。同時に、事実ではないかもしれません。
自分の仕事が上手くいかないのは「上司のせいだ」、「会社のせいだ」、という決めつけが自分の頭の中にあれば、それを裏付ける根拠や出来事はいくらでも自分の頭の中に思い浮かんできて、自分の中ではそれが「事実」になっていく。
本当に上司や会社が悪いのか、とは、ほとんど関係なしに。
一方で、仮に、自分がたまたま縁あって入社した会社や、たまたま巡り合った上司が、自分とは致命的に相性が合わなかったとしても、それ自体は仕方のないことで、自分のキャリアを「会社のせい」「上司のせい」にすることなく、前向きに次の一歩を踏み出して成功を掴んでいく人も、この世界には沢山います。
同僚や友人の前で会社の愚痴を言ったり、自分の仕事が上手くいかないのを上司のせい・会社のせいにしてネガティブなことを言ってしまう人は、自分の人生「このままでいい」とは思えないのに、「○○のせいだから、このままでも仕方がない、自分のせいじゃない」と言い訳をして、「自分は○○だから、転職はちょっとね・・・」と、「このままではいけない」人生を、これから頑張って変えることから逃げているんです。誰かのせい、何かのせいにして。
これは、厳しい言葉だと思います。
ほとんどの人は、この現実を受け入れられない。
でも、実は、「上司のせい」、「会社のせい」、という「言い訳」が出てくるのは、「このままでいい」と自分自身が思っていないから、自分の人生に本当は満足していないから、つまりは、自分の人生を変えられる余地があるから、なのだと思います。
「課題の分離」
ここで出てくるのが、「課題の分離」という話です。
ものすごく簡単に言えば、「自分は変えられる・他者は変えられない」ということです。
日々上司の顔色ばかり気にして働く人や、周りの同僚からどう見られるかばかり気にしてビクビクしながら仕事をする人は、間違いなく不幸ですし、そんなことをしても、「他人に気に入られるように考え行動する」だけになってしまうので、どんどん自分が死んでいきます。
自分は、「自分がやるべきだと信じること」を真っすぐにやればいいのであって、それによって「他人がどんな反応をするか」は、気にしても仕方がない。
なぜなら、「自分は変えられる・他者は変えられない」からです。
自分の人生に「上司」や「会社」は一切関係が無く、また、周りの人に対して「自分はダメな上司に当たったせいで仕事が上手くいかなくて・・・」みたいな言い訳をする必要も一切ありません。
言い換えれば、「周りの目を気にする必要はない」「承認欲求など満たす必要はない」ということだと、『嫌われる勇気』には書かれています。
私もさすがに、この「承認欲求の否定」部分は極論かな、と若干思いましたが、確かに「承認欲求など満たさなくても幸せになれる」「他者からの承認など気にしない方が自由に生きられる」というのは、私も実感があります。
私「安斎響市」は、日々、Twitter廃人として活動を続けておりますが、2021年6月現在、約2万人のフォロワーがいるにも関わらず、「20いいねも行かない不人気のツイート」というのが度々あります。
ある意味で、驚異的ではないでしょうか?
2万人も見ているはずなのに、「20いいね」も行かないということは、1,000人中999人が無視しているということです。

これ ↓ なんて、たったの「14いいね」です。

2万人フォロワーがいる人のツイートとは思えません。
それほどまでに「誰からも共感されていない」いうことです。
私は、このように、日々全く「いいね」されないツイートを垂れ流しています。
もちろん、時にはツイートに1万いいね、5万いいね、それ以上が付くこともありますが、はっきり言うと、あまり気にしていません。
私自身は、自分のツイートを全部「面白い」と思って投稿しているから。
自分が「面白い」と思っていれば、それでいいんです。
これが、まさにアドラーの教えであり、「課題の分離」ということではないかと思います。
私は、私が「面白い」と思うことをやる。
ただし、それが他者から見て本当に面白いかどうかは、他者一人ひとりが個々に決めることだし、私には「全員に面白いと思ってほしい」などとコントロールすることはできません。
時に「クソリプ」が来ることもありますが、私のツイートを見て、他人がどんな反応をしてどんなリプライをするかは、その人自身の課題であって、私の課題ではないので、「なんで、こんな冷たいことを言うのだろう?」「なぜ、私のことを攻撃するのだろう?」などと気にしても全く意味はないのです。
実際、私はあまり気にしていません。
私が「クソ面白い」と思ったツイートが、実際つぶやいた後に完全にスベリ倒して誰からも注目されなかったとしても、それはそれで仕方がないし、そもそも、そんなことは「他者の課題」なので、自分が気にしてはいけない。
なぜなら、「私自身が面白いと思っている」だけで、十分だから。
誰かに認めてもらう必要などないから。
自分が「安斎響市」の創作活動と、それが生んでいる結果に満足していれば、別にそれをフォロワー一人ひとりや、自分の周りの友人や同僚に認めてもらう、誉めてもらう必要はない、ということです。
端的にいうと、これが、アドラーが論じている「自分の課題」と「他人の課題」を分離することだと、私は理解しています。
自分以外の誰かの期待を満たすために「他者に媚びて」生きてはいけないし、同様に、他者も他者で、別に「あなたの期待を満たすために」生きているわけではない。
だから、他者の反応なんて、気にするだけ無駄、ということです。
仕事関係の例を挙げると、
例えば、自分の仕事ぶりを上司が高く評価したとしても、低く評価したとしても、それは「上司の課題」であり「自分の課題」ではない、ということです。
自分は、一応は上司と良い関係を作れるように普段から努力はするが、それによって、実際に上司が自分をどう評価するかは100%上司の裁量であり、自分ではコントロールできないので、そんなことを気にしても仕方がないし、最悪、上司が致命的に自分と合わないのであれば、部署を異動するなり、転職するなりして切り捨てればいいだけ、という心理的な境地に立てるかどうか、ということです。
自分が正しいと思うことをやって、評価されるならそれで良し、評価されなくても別に気にしない。評価してくれない人とは縁を切ればいいだけで、「私はこんなに頑張っているのに、なぜ認めてもらえないのだろう??」なんて考えるだけ無駄、ということです。
なぜなら、他者を自分の思い通りにコントロールすることは決してできないから。
そして、自分を変えることができるのは、自分しかいないからです。
他者から評価されたいという欲求のために、自分自身の行動を捻じ曲げてはいけないのです。
「自由とは、他社から嫌われることである。」
この「承認欲求の否定」は、アドラー心理学の中でも、なかなか衝撃的な部分です。
アドラーは「自由とは、他者から嫌われることである。」と断言しています。
わざわざ嫌われようとする必要は全くないけれど、周りみんなから好かれたい、評価されたい、自分のことを認めてほしい、という承認欲求の感情は自分を不幸にするから、今すぐに捨てるべきだ、ということです。
確かに嫌われることは苦しい。できれば誰からも嫌われずに生きていたい。承認欲求を満たしたい。でも、すべての人から嫌われないように立ち回る生き方は、不自由きわまりない生き方であり、同時に不可能なことです。
『嫌われる勇気』第三夜~第四夜より抜粋
自由を行使したければ、そこにはコストが伴います。そして対人関係における自由のコストとは、他者から嫌われることなのです。
(中略)
あなたのことをよく思わない人がいるのは、あなたが自由に生きている証なのだ、と。
「他者からどう見られているか」ばかりを気にかける生き方こそ、「わたし」にしか関心を持たない自己中心的なライフスタイルなのです。
これは、つまり、「周りに評価されようと努力すること」「他人に合わせて生きること」で、本来の自分の人生を殺している、という指摘に他なりません。
常に自分が正しいと思うことをやっていれば、そして、自分が、自分の人生に満足しているのであれば、別にそれを他者から認められようが認められまいがどうだっていいはずです。
自分が正しいと思うなら、その時点で終わりでいいはずです。
周りの人に、わざわざ「自分の正しさ」を認めさせる必要はない、ということです。
これは、例えば「自分は家族がいるし、もう年齢的に転職はできないからさ、ハハハ」とカッコ悪い言い訳するのではなく、「私が今いる会社はワークライフバランスや働き方の観点で本当に最高だ。だから、これからもこの会社で働くんだ」と自信を持って言い切ればいいし、それに対して「そんなの卑屈な言い訳だ、他の会社で活躍できる自信が無いだけだ」と嫌な返しをする人がいたとしても、一切気にせずに全員無視すればいいだけ、ということです。
同じように、
「新卒1年目で辞めること」をどんなに周りから批判されたとしても、自分がそれが正しい道だと信じているのであれば、その道をただ進めばいいし、周りから何を言われようと無視すればいい、
「転職を繰り返してイカレたジョブホッパーだ」と私のように元同僚にバカにされたり、親に泣かれたりしようとも、自分が今のキャリアに満足しているのであればそれで良くて、友人・知人や家族の同意を得る必要など初めからない、
という考え方です。
全ての人に理解されることなんてできないし、その必要もない。
自分が正しいと思っていれば、他者から認められる必要なんてない。
ある意味で、このような心の境地に立てたのなら、確かにアドラーの言うように、人生の悩みは全て無くなるのでしょう。
ただ、それは実際には相当に難しいことだと思います。
最後に:「勇気」を出せない、全ての方へ
アドラー自身さえも、この心理学を理解できたとしても、実践するのは非常に難しい、完全に体得しようとすると10年単位で時間がかかるものだと、認めています。
自分の人生が上手くいかないのを、誰かのせい、何かのせいにしてはいけない。
「できない理由」をでっち上げて、本来やるべきことから逃げてはいけない。
自分が正しいと思うことを、ただやればいい。それが他者から認められなくても気にしなくていい。他者をコントロールすることなど不可能なのだから。
要約すると、たったこれだけのことなのに、それでも、明日から実践するにはあまりにも難しく、精神的にハードルが高いことではあります。たぶん。
それでも・・・
「別に周りから認めてもらえなくても全然問題は無いんだ」
「自分が、自分のやりたいことだけをすればいいんだ」
「その結果、自分の考えが会社に馴染まなければ、会社を辞めればいいんだ」
「考え方の合わない友人なら、縁を切って、もう会わなければいいんだ」
と、自分を認めて、強い精神状態になれたのなら、きっと人生はずっとずっと楽になるのだろうなあ、と思います。
名著『嫌われる勇気』の解説と、その考え方を基にしたキャリア論を、ここまで書いてきました。
以上は、あくまで私の解釈です。
同じ本を読んでも、捉え方は人によって違うと思います。
この記事を読んで、考えるところがあった方は、是非一度『嫌われる勇気』を読んでみることをオススメします。
もしかしたら、人生が変わるかもしれません。
既に「勇気」が出てきた方は、ぜひ、こちらの記事も読んでみてください。
あなたのキャリアを変えるためのヒントになるはずです。
「安斎響市の転職プロジェクト」
① 運命を引き寄せる「職務経歴書」の書き方 & 応募企業の選び方
② 相手を一撃で惚れさせる、圧倒的「面接」テクニック
③ 年収を爆発させる「給与交渉」と「退職」の出口戦略
それでは、今日は、この辺で。
お相手は、安斎響市でした。